子どもたちのことを真剣に考えましょう。

塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜41

これはある意味、語りつくされたことなのかもしれないのだが、私が思うに情報社会が進むと

その情報に頼るゆえに、本来、必要不可欠なことが忘れ去られてしまっているように思う。

情報を知っていれば、近道が可能なように考えてしまう例が後を絶たないような気がしてなら

ない。

伸ばしている企業などを分析してみると、冷静に社会情勢を読み、地道な努力を怠らないもの

だけが成功しているように思えるのだが、どうも私たちの業界を見ると皆が近道ばかり探して

いるような気がしてならない。

記事をお読みいただいている皆さんはどうお感じになっているのだろうか?

 

この傾向は子供たちにも当てはまる。

近道を探すばかりに教材の良し悪し、私たち学習塾の良し悪し、学校の教師の良し悪し、教育

環境の良し悪しなど、挙げればきりがない。

子供たちに接している私たちはよくわかるのだが、うえで上げた要素がいずれも二次的なもの

だとわかる。

同じような家庭環境で同じ塾に通い、同じクラスで同じ授業を受けている子供たちでも、学力

に大きな差が出てきていることは誰でもわかることだと思う。

しかし、学力が劣る方はそれをいろいろなもののせいにする。

 

私は45年もの間、学習塾にかかわっているが、10年以上前の生徒や親御さんは違った。

「学力は最終的には本人の学習に対する姿勢で決まり、学習塾などは参考書や問題集のように

ひとつのツールにしか過ぎない。最大限に利用した者の勝ちである」

こんなことを話すとほとんどの親は納得し、子供たちにそれを言い聞かせたものである。

いまはそんなことを言うと、ひどい方は。「それは学習塾の自身の無さの表れだ」などと言う

人もいる。

 

大人の世界ではやはり気力が充実し、一生懸命やった者が生き残っていける。世の親たちはそ

ういうことをわかっている思うのだが、子供の世界になるとそれが理解できない。学校も幼少

時代も社会に入るための準備だということをわかっていない。そういう環境下にある子供たち

が変わってしまうのは仕方がないことだと私は思う。

                                     (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 10:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜40

前稿につづく。

また、今の子供たちがどんどん失っているのが忍耐強さである。

人間性も学力も、この忍耐強さが育てる例が多い。

我慢させないというのは子供たちの伸びしろを奪っている行為で、それをわかっている者

は非常に少ない。

結果が出なければ、まわりのいろいろなもののせいという考え方は間違っている。

 

学習塾をやっているとそういう例が多くなった。

塾に行っていても、成績が一向に上がらないから、退塾させたり、転塾させる例が後をた

たない。

子供たちにすれば、親が結果が出ないのは塾や学校のせいと言ってしまったら、自己反省

の場が取り上げられる。

私は手前味噌だが、生徒の成績を上げるということに関しては、いたるところで噂された

経験があるのだが、その当時、一番大事だと思い、心掛けていたことは生徒が自分自身を

客観的に見て、しっかりと反省させるということだった。

それをしっかりできる者で成績が悪い、成績が上がらない者は一人もいなかった。

しかし、昨今はそれを学校や塾のせいにしてしまう。

結果、子供たちは自己反省を知らずに育ち、大人になればなるほど大きな失敗をする。

気を付けなければならない。

 

これは子供たちや教育の世界に限ったことではない。

他業種も同じような悩みを皆持っている。

結果、社会全体がギスギスして、伸びやかに成長していく例がどんどん減っている。

クレームを恐れ、本来欠かしてはならないことを平気で放棄してしまっている。

こういうことを繰り返していくとどんどん企業も人も疲弊してしまう。

 

子供たちや親御さんの中にもこの傾向はある。

ゆえに子供たちと接している私たちは、世間一般のそういう傾向を熟知して、子供たちに

接していかなければならない。 

                                 (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 16:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜39

「今の子供たちとというのは数年前と比べたら、本当に扱いづらくなっている」

テレビなどのコメンテーターの言を聞いていると、本当にこの手の批評が後を絶たない。

しかし、本当にそうなのだろうか?

私は本質的な部分を考えたとき、まったく子供たちが悪いとは思えない。

 

そもそも子供たちは純白の状態で生まれてくる。

そこに色を染めていくのは大人たちや社会である。

大人たちや社会の状況に子供たちは左右される。

よく子は親の鏡というが、子供たちは社会の鏡でもある。

子供たちが抱えている理不尽さや不合理さは、大人や社会が作り出しているのである。

 

塾をやっているとわかるのだが、時々、子供たちの価値観がどんどん自分と同じになって

きてしまう時期がある。

若いころはずいぶん悩んだものである。

私のような人間が子供たちの範になることができるのか、自分が知らないうちの植え付け

てしまっている価値観は正しいものなのだろうか?

良く思いあがって、「そんなことは当たり前だ」と豪語する者がいるが、自己研鑽をまじ

めにしている人間からはそういう言葉は出るはずがない。

そういう者ほど、子供たちの可能性を引き出せないのである。

 

子供たちに戻る。

前の記事でも書いたように「少子化」は子供たちをある意味、わがままにしてしまってい

る。もちろん何度も言うがそれは子供たちの責任ではない。

子供がわがままになるのは親や社会が甘いのであって、その裏側には社会も、親も、すべ

てに対して自信が欠如してしまっていることにあると思う。

中にはそれなりの信念を持っている者もいるが、私の知る限り過信していたり、強がって

いる場合がほとんどである。

そういう状況だからこそ、子供たちはわがままになっていくのである。

                                    (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 07:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜38

この一連の記事は、「ここ10年で塾は大きく変わった」という題の記事だが、これまでは

塾やそこに携わる者たちがどう変わったか、これからどうするべきかを書いてきた。

これはまだまだ書くべきことを私は持っているのだが、少し休憩をいただいて、何稿か、

世の子供たちや親御さんたちがどう変わったかを書いていこうと思う。

 

まずは子供たちだが、これはずいぶん変わった。

しかし私自身、10年前と比べて、現場に入る機会がずいぶん減ったので、その辺のギャッ

プもあるかもしれない。読んでいただく方はその辺を考慮して、読んでいただきたいと思

う。

 

私個人の考えなのだが、子供たちの本質はさほど変わっていないと思う。しかし、外面的

な部分は大きく変わったと感じている。

 

なぜ外面的な部分が変わるかと言えば、外面はやは外の環境で左右される。

子供たちにすれば、少子化、ゆとり教育、構造不況、教育変化などの環境の変化でずいぶ

ん価値観が変わっている。

この変化に私たちの業界は全く付いていけていないと私は思っている。

塾はサービス業ゆえ、こんなに変化に鈍感ではやはり滅びるしかないと感じる。

子供たちや環境の変化で変わっていかなければならないのである。

 

まずは子供たちの変化なのだが、これを語るには子供たちを取り巻く環境の変化を考えな

ければならない。

 

まずは「少子化」である。

この少子化はとどまるところを知らない。

2035年までには、65歳以上の国民が半数を上回ってしまう。

世の中は老齢社会となり、子供たちはどんどん少数派となってくる。

そうなれば、希少価値がある子供たちを大事にしよう、特別扱いしよう、という風潮にな

っても不思議ではない。

一人っ子政策をしていた中国の例を見ればわかるが、モラル教育などはなかなか難しくな

る。

「日本人は中国人とは違う」と思う人もいるとは思うが、40年以上、子供にかかわってい

る私に言わせれば、今の日本の子供たちは中国の人たちに明らかに近づいている。

                                    (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
桜、桜

先日、高校の同級生からメールをもらった。

卒業以来、事あるごとに信仰を深めている親友である。

そのメールはいっしょに桜を見に行かないかという内容である。

「あと何回見れるかわからないから、見に行こう」いう内容だった。

 

還暦を何年も過ぎた歳になると、やはりそういうことを考えるようになる。

桜を見に行くということは非常に能動的かつ行動的なことで、決して老け込み、老いを

実感しているからではない。

しかし、若い人たちが桜を見るのに、「あと何回見られるか」などと考えるわけもない。

能動的な行動になんとなくペーソスを感じてしまうのが老いなのだろうか?

友人としても、「人生を謳歌」するための花見であるということなのだろう。

 

こういうことはいろいろな側面でも起きていて、我が子のことを驚くほど客観視してい

る瞬間に気づくことがある。

子育てに追われていたころは常に主観的で、客観的などにはなれなかった。女房の見方

についても、客観視しているときが気が付くとあったりする。

「心の中に余裕ができた」などと言う人もいるが、「余裕」などという自覚症状はこれ

ぽっちもない。

私にしてみれば、なんとも不思議な感覚である。

 

しかし、これは最後の願いなのだが、桜を見たときの感動だけは変わらないでほしい。

もちろん生きてきた歴史があるので、その桜からいろいろなことを思うだろうが、その

瑞々しい感動だけは永遠のものであってほしい。

こんなことを言っていると花見さえも怖くなってしまうのだが、少しそんなことも脳裏

を過ったりもする。

 

桜の短い一生に自分を投影することだけはないと信じたい。

まだまだ私は満開の最中にあると思えるような感動をしたいものである。

そんな意味でも毎年の桜見物は欠かせない。

| とよ爺 | 日記 | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜37

大手が「守り」(管理)を説明するときに一番出てくるのがPCの話である。

しかし、人間(特に子供たちのように機微が重要な場合)の管理をPCですることは難しい。

PCは数字を管理するものであって、人を管理するものではない。

人がしっかりと子供たちを管理するから、子供たちは伸びるのであって、PCで子供たちを

伸ばすことはできない。

 

私たちの業界も悪いのだが、これは親たちも悪い。

データ管理は管理の一部ではあるが、ごくごくそれは小さな部分である。

大事なことはそのデータをどう活用するかであり、そのアドバイスをするのは人間なので

ある。

PCでしっかりとデータ管理しているから、管理が行き届いているなどと思う人がいるが、

それは大きな間違いである。

PC中心の管理なら、お金を出せばできる。高い月謝がそこに使われているだけなのである。

 

ゆえに中小塾はチャンスがある。

しっかりと生徒管理をして、それを指導にどう生かせるかを試行錯誤していけばよい。実

はそういう塾は昨今非常に少ないので、続けていけば必ず効果が表れる。

それは学習効果はもちろんだが、それが浸透していくとその塾の大きな魅力となる。もち

ろん他塾との差別化もできるので、そこに生き残れるチャンスが生まれる。

どの業界に共通しているが、特徴がない者から淘汰されていく。生き残りたいと思えば、

その塾の持ち味を増やしていくことが大事である。

 

この種の記事を書き始めた最初に戻るのだが、今の業界を見ると個性がどんどんなくなっ

ている。

また、特に中小塾に多いのだが、ワンマン塾屋のやり方を頑なに守るのは良いのだが、あ

まりにも変わらないので、自分が気が付かないうちにそれはマンネリになり、個性が失わ

れていっている。

頑固経営者の塾が廃業に追い込まれるケースはほとんどこれである。

 

「存在する塾の数だけ個性がある」

そういう業界にしていかなければ、塾業界はすぐになくなってしまうだろう。

塾業界はもう発展期、繁栄期、衰退期と分けるならば、明らかに衰退期に入っている。

新たな発展期を迎えたいのなら、やはり個性が大事である。

実は今の大きな業界はこれを3サイクル以上繰り返している。

そして、滅びた業界は1サイクルで終わりである。

塾業界は1サイクル目の「衰退期」に入っている。

世の塾屋には頑張ってほしいものである。

                                   (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜36

基本的に塾に通おうとしている子供たちはその塾の「攻め」を見る。

一番目立つものなのだから、そういう見方をする子供たちは責められない。

しかし、学力・成績を上昇させるのは実は「守り」の部分で、昔の親たちはそれを十分

承知していた。

「学問に王道なし」ということを親はしっかりと見抜いていた。

しかし、昨今の親たちは子供たちと同じように、「攻め」に流されてしまう。

学問の本質が忘れられてしまっているのである。

 

それにはいろいろな原因がある。

もちろん私たちの業界にも責任がある。

特に大手はお金と手間のかかる「守り」を嫌う。

ゆえに「攻め」を強調した広告を作り、あたかも守りが二次的なもののように子供たち

や保護者をリードしていく。

もちろんその辺の愚は、教育者である教員たちはわかっているのだが、学校離れもあっ

て、なかなか表だってそれを言わなくなってきた。

そうなれば、学習塾の手の内である。

ここ10年でこういう本質さえもがなくなってきてしまっている。

 

しかし、教育の本質がなくなるわけはない。

大人たちはもう少ししっかりと考え直してほしいと思う。

自分たちの学力を上げてくれたのは、漢字書き取りやドリルなどの反復練習であり、そ

の裏に学校の教師たちの地道な指導があったからである。

そういう基礎の上に成り立った学問だからこそ、飛躍があり、底上げができていたので

ある。

教師の仕事のほとんどがものを教えるということではなく、生徒たちを管理することだ

ったのである。

 

世界の教育を見ても、本質は変わらない。

前の稿でシンガポールのことを書いたのだが、世界一のシンガポールは子供に対する教

師の数などを工夫して、物理的に管理しやすくしているのである。管理なくして、子供

たちの学力は上がらない。

大事なのは。「守り」の部分なのである。

                                   (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜35

大手が手が付けられないことのもうひとつが手間がかかることである。

大手というのは習性的に常に合理性を求めるものである。

企業ゆえ、利益追求をするので、塾でいちばんお金がかかる人件費を増大させる危険が

あることはしない。

中小企業にとって、手間とは仕事のうちなのだが、大手にとって余計な手間は利益を損

ねるものなのである。

そこを徹底的につかない限り、とても大手には勝てない。

 

大手は「攻め」のノウハウにはお金をかける。

しかし、特性として「守り」のノウハウにはお金をかけない。

大勢が手間がかかってできないものをやっていけば、世の中はそれを認めることになる。

例えば、嗜好の世界などで大手に買っているお店は、手間を惜しまないお店である。

生活に密着すればするほど、人々はその手間を認めるはずである。

 

教育は非常にそういう意味では遅れている業界である。

教育の手間に関しては、多くの人が見逃している。

そもそももっとも手間がかかるものなのに、人々がそれを選別できないというのは、やは

りそこに身を置く者たちのレベルが低いのである。

 

しかし、そこを徹底的についていけば、業界を引っ張ることができるかもしれない。

加えて、その可能性があるのはいわゆる中小の塾だけである。そういうことをしっかりと

考えて、塾づくりをしていってほしいものである。

 

先の話に戻るが、いわゆる「攻め」とは、教室運営法である。

「映像授業」「演習授業」「テスト対策授業」などなど、いわゆるその塾の要となるもの

である。

それに反して、「守り」とは地味な部分である。

具体的に上げれば、「学習管理」「精神管理」「意識付け」などなどである。これには具

体的な方法もなければ、時間が区切るものでもない。

しかし、こういうことをしっかりと完璧に行える塾には絶対に敵わない。

世の中小の塾屋たちはここのところをしっかりと考えてやるべきである。

                                   (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜34

中小の塾屋さんたちには大きな認識の違いがある。

いわゆる大手学習塾の状況が非常によく、自分たち中小だけが苦しいと思っていことである。

少子化がどんどん進んでいる昨今、大手学習塾も同様に苦しいはずである。

加えて大手はマニュアル運営をしているので、中小と比べて、より苦しい側面もある。

そういうことを十分知ったうえで、戦略を練らなければならない。

 

動物でも同じだが、体躯が大きいとやはり正面からぶつかっていっても、跳ね返されてしま

う。

しかし、細かい動きには弱く、変化にも弱い。

中小が生き残るためには、繊細なサービスと大手にはできないドラスティックな変化が必要

である。もちろんそれは大手にはないユニークなものでなければならない。

 

「よく大手がやっているから、自分たちも同じようなノウハウで」などという人がいるが、

それは体躯の大きいものに体当たりするのと同じである。体躯の大きい者が苦手な足元を突

くとか、場合によっては背後から攻撃するとかしないと戦いにはならない。

大手のノウハウを真似するなど、兵法から言えばとても勝ち目がない。

また、すぐに大手に真似ができるノウハウでも、戦いになれない。大手は真似することは非

常に得意なのである。加えて大きな資本を持っているので、真似をされてしまったら、すぐ

にオリジナルの欠点を見出し、より良いものを作ってしまう。とにかく真似のできないもの

を考えなければならないのである。

 

大手が真似ができないものとはどういうものなのだろうか?

その一つが前で上げているアナログ色の強いものである。

アナログは明らかに時代と逆行をする。

いつの時代もそうなのだが、その業界を引っ張っていると思っている者たちは、時代と逆行

するものに手を付けられない。

要するにそれが大きな大手の弱みなのである。

「もう古い」と大手が思うようなやり方で、新しい手法は星の数ほどある。

時代はめぐっているので、「古い」と思われているものが、「新しく」感じられることなど

数多くあるものである。

そういうものを思考していく姿勢があれば、必ず生き残れりはずである。

                                     (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜33

この記事から、本来の「大きく変わった」という部分に入っていこうと思う。

ここ10年でいちばん大きく変わったと私が感じているのは、「個性がなくなった」という

ことである。

もちろん経営が成り立たせるためには、「個性」を捨て、流れに身を寄せなければならな

かったのかもしれないのだが、そうしてみて本当に自分たちの状況が好転しているのだろ

うか? 時代は繰り返すので、流れに負けて変えてはみたが、かえってやり方を貫いた方

が良かったのではないかと感じたこともあるのではないだろうか?

 

実はこうやって記事にしているのも、私の周りにはこのようなことを言っている塾屋があ

とを絶たないのである。特に廃業を余儀なくされた者のほとんどが言っていたりする。

もちろん貫いて死んでしまった者もいるが、そういう者の方が覚悟ができていたので、清

々しかったりする。私の見る限り、伸ばしているのはアナログを忘れずに必要最低限のデ

ジタル化ができた塾屋だけである。これに気づいている塾屋はあまりにも少ない。

 

中途半端なデジタル化をした塾がほとんどになってしまった。あとは世の中の流れについ

ていけず頑固にやり方を変えない塾。後者も公教育が変わっているのだから、成功するわ

けがない。

ここまで書けば言いたいことはわかるだろう。ノウハウ的にはある程度のデジタル化は必

要不可欠だが、精神的にはアナログでいかなければ塾はだめなのである。ここまで書いて

もわからない人はたくさんいるだろうが、わかる人間にははっきりと私の主張はわかるだ

ろう。そういう世の中のニーズをしっかりと感知して、運営している人間のみが勝ってい

るのである。

 

このシリーズで最初から話している、「今の塾は個性がなくほとんど同じ」と言い切って

いるので、要は勝ち組がほんの少ししかいないのである。

要するにほとんどが個性がなく、これといった具体的な方針・目標も持てず、息も絶え絶

えに教室運営をしているのである。

今は業界全体の踏ん張りどころなのである。

                                    (つづく)

| とよ爺 | 学習塾 | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
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