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塾の起源〜明道館

江戸時代も後期になるとやはり外国列強の中の日本を考えるようになる。

多くの大名が国際社会で発言力を持つためには国をもっと富ませなければならないと考えはじめる。

そうなると必要なのは人材である。

この越前藩も1855年に、福井城内に「明道館」という藩校を作った。

しかし、その学校は旧態依然としていて、藩主の慶永が満足できるものではなかった。

 

童門冬二の本によるとその頃の佐内は江戸を出て、遊学の中にあった。

その中で佐内は水戸の藤田東湖と知り合うことになる。(藤田東湖の青藍舎は次に取り上げようと

考えている)

その折、東湖の屋敷に佐内は頻繁に出入りし、多くの人材と交わることになる。

結果、聡明だった佐内は、「越前に橋本あり」と噂されるようになる。

当時の越前藩にも優秀な重役がいた、中根雪江や鈴木主税らである。

彼らは藩主慶永に佐内の話をする。慶永は手を打って喜んだという。

以下、童門冬二さんの「私塾の研究」から抜粋する。

「すぐに橋本を召し戻して、明道館の改革に当たらせよ」

「しかし、彼はまだわずか二十三、四歳で、若輩でございますが」

「かまわぬ、若くても力のある者は思い切って登用しよう」

「藩内に軋轢が生じると思いますが」

「その責任は私とおまえたちが負おう。橋本に思う存分改革を実行させよ」

 

福井藩は幕末のわが国の歴史の中でさほどクローズアップされていない。

むしろ柴田勝家、お市の方の北ノ庄の方がはるかに有名である。

人物としては春嶽公が良く取り上げられるが、福井藩が大きく取り上げられることは少ない。

しかし、ここに出てくる藩内教育に関しての決断は大いに取り上げられるもので、当時の藩の中

でも先進的であったと私は思う。

福井で学習塾をしているとその頃の歴史が今の福井県の教育の芯に存在しているのではないかと

いうことを少なからず感じることがある。

のちにこの若造の佐内がこの藩校をたった一年で別物にしてしまう。

現行の塾屋さんの多くが教室経営に悩んでいる昨今、ここに私たちが学ぶことは大きい。

今書いているようなダイジェスト版ではその仔細は記事にできないが、ぜひとも学んでもらいた

い。

福井に教室を出す前に同業者の会合で佐内の話を実はしたことがあったのだが、「この人は時代

遅れだ」と言わんばかりの視線を私は浴びたことがある。

もちろんその人は今はこの業界からは去らなければならなかったのだが、すべてのヒントがいろ

いろなものに隠れていると思えないのは悲しいことである。

佐内の改革はそういう意味で非常に学ぶべきものがあるといってよいだろう。

| とよ爺 | 学習塾 | 10:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
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