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塾の起源〜明道館

佐内16歳、1849年から、緒方洪庵の適塾に通っている。

当時、外国の学問を習っているというので、多くの学生は気を緩め、自由奔放に振る舞って

いたのだが、佐内は品行方正で模範学生だったようである。

 

童門冬二さんの本にこういう文章がある。

佐内が毎晩夜になると外出するというので、「女のところにでも行くのではないか」と疑っ

た福沢諭吉が後をつける。しかし佐内は、橋の下に寝ていた浮浪者の病人の診察をし、手当

をしていた。これは福沢諭吉に衝撃を与えた。

佐内は、こういう自由奔放な学生仲間の中にあって、品行方正な態度を持ち続けていたが、

実を言えば腹の中では他の学生を困ったものだと思っていた。

「外国の学問を学んだということで、外国人の悪い生活習慣まで身に付けてしまっている。

これは危険だ。いたずらに外国の学問を日本に撒き散らすと、本来学ぶべき知識や技術だけ

でなく、外国の腐った根性まで身に付けてしまう」

 

この時の経験が、佐内の「和魂洋芸」の信念をいよいよ強くさせたという。

「和魂洋芸」とは。「和魂洋才」とも言い、日本古来の精神を大切にしつつ、西洋から優れ

た学問・知識・技術などを摂取、活用し、両者を調和、発展させていくことで多くの幕末の

志士たちが持った思想である。

佐内は開国論者ではあるが、アメリカ・ロシアと同盟し、イギリスを共同の適にしようなど

という国際連合論を持ってもいたが、単なる西洋かぶれでもなかった。

佐内は「儒学」もしっかり学んでいて、「道徳」や「人の道」の確かさは日本以外にはない

と信じていたそうである。

 

その後、父親の病気を理由に適塾を去ることになる。

福井に戻った佐内は藩主松平慶永のもとに仕えるようになる。

松平慶永は田安家から養子に入り、開明的な思想を持っていた。

しかし、当時の多くの藩の重鎮が古い考えにとらわれ、慶永のいうことを聞く者がいなかっ

た。その結果、佐内に声がかかったのである。

結果、島津斉彬が西郷隆盛を京都工作に使ったように慶永も佐内を京都工作に使う。

そこから、佐内の人生が少しずつ狂い始めていたのかもしれない。

| とよ爺 | 学習塾 | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
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