子どもたちのことを真剣に考えましょう。

頭脳戦

一昨日、次兄の仕事の関係で日本リージャスという会社の不動産開発ディレクターの柘植さやか

さんのお話を聞くことができた。

リージャスという会社は、120ヵ国1000都市3000拠点でレンタルオフィスを運営する大会社で

わが国にも24都市に110拠点でビジネスセンターを運営している。

わが国にビジネスを開始したのは1998年、20年足らずの会社である。

これから拠点を増やしていき、2020年には400〜500拠点にビジネスセンターを増やしていくと

いうものである。

もともとはイギリスの会社で設立は1989年、そんなに古い会社という感じはしない。

日本の企業感覚で言えば、むしろ会社歴は浅く、この短期間でこれほどの会社になるというのは

とんでもないという感じすらする。

ちなみに私のいた会社は創業は1967年、会社組織にしたのはリージャスと同1989年、そういう

意味では会社としては同い年である。

現状を考えると恥ずかしい限りだが、やはり話を聞いてみるとそれなりの秘密がある。

賢い経営手腕にただただ感心するお話だった。

 

ここ三か月で私は同じような営業手腕を発揮する3社の代表、そしてこの柘植さんの話を聞かせ

ていただいた。

最初はホテルグループCANDEO HOTELSの穂積輝明代表、GLOBAL AGENTSの山崎剛代表、そ

して、日本リージャスの不動産開発ディレクターの柘植さやかさんである。

細かい営業手法はHP等で調べてもらえばわかるのだが、3社に共通するのはそのユニークな営業

手法である。

自己資本を最低限でしか使わず、アイディア勝負という営業法である。

簡単に言えば、ハードではなく、ソフトで勝負という会社運営姿勢である。

短期間で成功するのは、やはりこういう会社でなければならないのだろう。

穂積氏はホテル業界で、山崎氏は賃貸マンション業界で、柘植氏はレンタルオフィスで、いずれ

も業界は違うのだが、頭脳で勝負しているという感じである。

 

私たちの業界も、場所・規模などハードなものよりもこれから生き残る者たちは頭脳を働かせた

人なのだろう。

残念ながら、私の業界にこういう風雲児はいないし、考え方も古いのだが、変わっていかなくて

は生き残れないのではないだろうか?

とにかく東京にはすごい人たちがたくさんいる。

東京というところは日本国ではなく、東京国なのだなあと改めて思い知ることになった。

もっともっと頑張らなければならないと実感した一日だった。

| とよ爺 | 日記 | 09:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
大荒れ

国会が大荒れである。

本当のことを話しているのであれば、誰かが嘘を言っている。

どちらにしても国の中枢に大嘘つきがいるということである。

こんな国にいったいどういう未来があるというのだろう?

本当に悲しい限りである。

 

いつ加計学園が申請していることを知ったのかという問いに対して、1月20日まで知らなかった。

という安部総理の答弁に対し、物議を醸しだしているのだが、そもそも認可を与える主たる組織

の長が、申請期間に当事者と飲酒やゴルフを共にするという行為がおかしい。

こういうことを平然と言う総理は本当に国民に馬鹿にしているではないかと思う。

どこに真実があるにせよ、国民を軽視する政治があってはならないと思ったりする。

 

とにかくここ数か月、教育に関しての政治腐敗が問題になっている。

もっとも公正な扱いを必要とする分野であって、こういう疑惑が出てくること自体、この国は遅

れていると思わざるを得ない。

もっとも政治が干渉してはいけない分野で、扱いは公正にしなければならない分野なのに、この

体たらくはまさにモラルや文化のない国が行うことである。

 

国会の答弁を見ていても、前川前次官を皆がいじめているような感じで、こういう集中砲火を見

ているとむしろ一人を大勢でいじめている方が悪いような感じがする。

前川前次官には何も守るものもないし、利益があるわけでもない。逆にいじめている大勢は権力

というものを必死に守ろうとしている感じがする。

調べる人も第三者ではなく当事者、これでは真実が出てくるはずもない。

第三者の介入を拒んでいるということも、一般社会の常識では後ろめたさがあるということにな

る。

一般常識が通らないこの世界を子供たちにどう説明すればよいのだろう?

夏休みのこの時期、一日中、テレビ放送が見れる中で少なくとも大人の対応をとれないものなの

だろうか?

 

「昔から政治の世界はこんなもんだ」という人もいた。

そうだとしても、それはまったく政治の世界は進歩をしていないということになる。

そんな政界で目覚ましく変わりゆくこの時代の先端を走ることができるのだろうか?

この大荒れがいつまで続くかわからないが、本当にもう腹いっぱいである。

今までを一新して、新たな体制を造れないものなのだろうか?

夢が持てる国になってもらいたいものである。

| とよ爺 | ニュース | 09:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾の起源〜明道館

佐内はまもなく明道館の改革に着手する。

まずは城内にある明道館を中心として分校を作った。

また同時に藩内の武士たちが勝手に作っていた学問や武術の道場を閉めさせた。

加えて新しく算科局と洋書習学所を設けた。

 

また技芸を重視し、当時の「技芸卑視」の風潮を払しょくした。

要するにより実践的な学問を重視したのである。

もちろん学生たちは反発した。

それまではまずは武士精神を極め、それから技芸を学ぶという考えが主流だったからだ。

武士精神を無視するような考え方は当然反発を呼ぶ。

しかし、実際に「それを学んだところで君たちはすぐに現場で役立つことができるのか」と佐内は

皆を説得した。

それはそれなりの説得力があった。

また、佐内は経済活動を重視した。

学生はそれにも多くが反発をする。

それまでは、「経済は卑しむべきもの」と教わっていたからである。

佐内は経済とは経世済民【世を経(おさ)め、民を済(すく)うの略】が目的だ。

組みを富ませ、民を幸福を与えるにはあらなければならないものだと話した。

 

そして、こう結ぶ。

童門冬二さんの「私学の研究」の文章を抜粋する。

「私は世間で悪徳と言われているようなことが、逆に人間が能力を開発する美徳だと信じている。

豪放磊落、不羈奔放、果烈狷介などを尊ぶ。なぜならば、こういう能力を持つ人材は、必ず大節義、

大機略、大作用、大処理を行うからだ。(中略)この福井から日本海のかなたの大陸、あるいは一

転して太平洋のかなたの全世界に目を向けよ。君たちには、そういう素養があるはずである。もし、

君たちの豪放磊落、不羈奔放、果烈狷介の性格を云々するような者がいたら、その責任はすべて私

がとる。子の明道館ではあくまでも題を目指して、君たちが自分の能力を体の底から噴き立てるこ

とを望む」

 

こんなことを言われて、感動を受けない若者はいない。

佐内の改革はこういうことから始まった。

しかし、改革に携われたのはわずか一年足らずだった。

慶永の腹心として、京都に「一橋慶喜擁立運動」工作に派遣されたからである。

のちにこれが安政の大獄に続いていくのだが、なんとも悲惨な結果をもたらしてしまったのだろう。

 

読んでいただいる皆さんにはよくお分かりになるだろうが、経済を重視したことにおいて、佐内は

石田梅岩と同じである。

経済が「経世済民」の略だと知っている者は少ないと思う。

現代では学ぶ者は多いのだが、この時代にはとても卑しいものだと思われていた。
「士農工商」という言葉でもわかるのだが、武士にとっては卑しいものだったのである。

両名とも本質を考え、それが不可欠なものだとリベラルな気持ちで教えることができている。

私も子供たちにかかわってきた一人だが、常にこうありたいと考えてきた。

その思いは何度も指導の局面において、私を間違いから救ってくれた。

目の前の子供たちにいったい何が足らなくて、こんな自分でもそれを満たしてあげられるのか。

当時の私の尊敬する者たちは、誰もがそういう確信を持っていたように思う。

| とよ爺 | 学習塾 | 10:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾の起源〜明道館

童門冬二さんの「私塾の研究」から、明道館の改革の真髄がわかる部分を抜粋しよう。

「改革の根本をどう考えるか?」と尋ねる慶永に佐内はこう答えた。

「政教一致でございます」

「政教一致とは?」

「政治に役立つ実学を教えるということでございます。現在の明道館では、まったく役立たぬ

空理空論ばかりが教えられています。学生たちがああいう風になるのは無理がありません」

「具体的には?」

「まず、教えるに足る人材を発見することでございます。続いては、その人材を育てることで

ございます。第三には、その人材に正しい政治技術を授けることでございます。そして第四は、

そういう人材を枢要なポストにつけて活用することでございます。現在の明道館の状況は、教

官たちが器量が小さいため、才能ある人材が発見できない。また、学問に自信がないものだか

ら、学生たちの行いの小さいことを問題にして、ああでもない、こうでもないと注意したり罰

したりしております。自分に迎合する者を好み、教官に反論したり、議論を吹っかける者を次

々と退けております。この三つの悪弊を除かなければ到底人材は発見されないし、育てること

もできないでしょう」

 

私たちの教室運営に照らしても同じことが言えるのではないかと私は思う。

どうして生徒が集まってこないか、成績が上昇させることができないかなど、塾をやっている

といろいろな壁に突き当たるものである。

多くの者はシステムや教材などを変えてみたり、生徒管理を厳しくしたりするのだが、それで

効果が出るのだろうか?

佐内が慶永に話していることはものを教えるうえでの本質であり、第一義に来なければならな

いものである。

私も多くの私学の教諭の皆さんとのお付き合いがあるのだが、例外なく生徒に人気があり、大

学進学実績をしっかりと出す先生は多くの勉強を普段からして、自分自身のすべてにおいて疑

問を感じ、常に改善をしているという共通点がある。

お恥ずかしいが私がいた塾の講師たちを見るに、一応はいろいろな意見を言うのだが、一番の

私の言う基本ができていない者が多い。もちろん私の塾以外の同業者たちも同じようなものな

のだが、佐内が言っていることは学校でも塾でも全くぶれなく現在も同じことである。

それを理解していない輩がここ最近は本当に増えた。

塾をやっている者などそんなに高級な人種ではないのだが、昔の塾屋たちはいわゆるドロップ

アウトしたアウトローが多く、その分、ポテンシャルもあった。

今の若い先生たちは昔の塾屋になった根本的な学力がない。ゆえに業界のレベルはおどろしい

勢いで落ちていると言っても過言ではない。

 

塾を繫栄させるにはまずは内部教育を徹底することが最初である。

もちろんそれはマニュアルを作り、徹底させることではない。

外食産業やショップではなく、扱っているのは子供たちの教育なのである。

世の親たちも子供たち本人も、そういうことにそのうち気づくに決まっている。

人気のある先生、人気のある塾の人材を持ていると、その勉強量の多さに驚くことが多い。

塾屋のプロだったら、勉強することから逃げてはならない。

塾の歴史を学ぶことなど、私に言わせればまず最初にやらなければならないことではないかと

思っている。

| とよ爺 | 学習塾 | 10:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
猛暑

私は現在、病気克服のため、毎日3度のウォーキングを自分自身に義務付けている。

日常生活に必要な歩行を含めると15000〜20000歩になる。

ここの10日間くらいは連日20000歩を超えていたが、さすがの暑さで一昨日、昨日と20000歩を

下回る感じになった。

金曜日にかかりつけの医者に行ったのだが、そこでも一度に歩くのは15分以内にしてくださいと

アドバイスを受けた。

歩けばよいというものではないらしい。

当分は状況によりけりだが、歩行が思うようにできないのでその他のことで節制に心掛けようと

思っている。

 

実は新たな仕事でやらなければならないこともある。

企画書を何点か書かなくてはならないことと、次兄が父親の仕事を引き継いでいるのだが、その

手伝いをしようとも思っている。

今は病気療養中なので、簡単なお手伝いしかできないのだが、徐々にやっていこうと思っている。

ただし、ほとんどが都内で行われる仕事なので最初は月に1回ほど、少しだけ顔を出しているとい

った感じなのだが、来月か再来月に再検査を行い、お医者さんからGOサインをいただければ、本

格的に参戦しようかと考えている。

 

と言っても猛暑である。

何があろうとここで無理をしてしまうと元も子もない。

ピークが過ぎるまで最低限のことだけはするが、静かにしていようと考えている。

やっとここまで来たのだから、逆戻りはしたくない。

そういう意味で頑張ろうと思っている。

 

こういう時には私の好きな読書なのだが、情けないことに目が悪くなってきた。

先日、ハズキルーペというものを仕入れ、今試しているのだが、元来、あまり眼鏡等をかけて、読

書することがなかったので、なかなか長時間の読書ができない。

昔は寝るのも忘れて、読書をしたものなのだが、今は1〜2時間読書をすると、疲れてしまってなか

なか思い通りには読書をできない。

iPadを使い文字を大きくして読書をしていたのだが、やはり実際の本を読む充実感がない。

加えてiPadだと読みたい本が手に入らない場合もある。

どちらにしても今年は猛暑ということなので、その対応策を考えなければならない。

 

これからは地球温暖化の関係で、毎年、猛暑の度合いが増していくのではないかと思う。

猛暑対策をいろいろな意味で考えなければならない。

今年はその元年になりそうである。

| とよ爺 | 日記 | 08:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
梅雨明け

気象庁の梅雨明けの発表から、4〜5日過ぎた。

もっともその前から、炎天下の日が続き、梅雨だと言われても、なんとも実感がわかない日々

だった。

とにかく猛暑というのがふさわしい日々で、夏本番を迎える前から、夏バテのような感じにな

ってしまう日々だった。

梅雨明けという境目が全く分からないまま夏に入ると、その言葉の響きだけで更なる夏バテが

来ているような感じがした。

 

今年は例年のような夏の混乱はない。

引継ぎのために会社に籍を置いているが、この夏でその籍もなくなる。

とは言え、この夏に身体のオーバーホールが半ば完了する予定でそうなったら、新たに違う場

所に籍を置くつもりでもいる。

その籍も今の会社からは無縁ではないので、大きな意味で縁が全く切れるわけでもない。

 

しかし、自分の人生の中で大きな境目であることは間違いない。

この歳になると今までの人生を完全否定するなどと言うことはできない。

新たな再出発という人もいるのだが、まったくそれまでの人生と関わりを持たない人生を始め

られる人はどれほどいるのだろうか?

私の周りにはあまり存在しない。

やることは新しくとも、それまでの経験を生かさないわけではない。

そういう意味で新しいことを始めるという考え方もあるが、それまでの人生を総括する意味も

出てくるのではなかろうかと思う。

 

夏は私の中で大きな境目となる。

この一年、この夏を目標に生きていたような感じがする。

そして、梅雨明けとともにその夏がとうとうやってきた。

この一年の総決算と言っても、過言ではない。

「梅雨明け」というのはそういう意味でなんとも厳粛な気持ちを私の中に湧きあがらせるもの

だった。

この夏の結果次第では、今までとは少し違った人生を歩み始めることになる。

そういう意味では非常に楽しみな季節でもある。

去年の今頃に戻らないように細心の注意を払いながら、なり切りたいと思う。

| とよ爺 | 日記 | 09:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾の起源〜明道館

江戸時代も後期になるとやはり外国列強の中の日本を考えるようになる。

多くの大名が国際社会で発言力を持つためには国をもっと富ませなければならないと考えはじめる。

そうなると必要なのは人材である。

この越前藩も1855年に、福井城内に「明道館」という藩校を作った。

しかし、その学校は旧態依然としていて、藩主の慶永が満足できるものではなかった。

 

童門冬二の本によるとその頃の佐内は江戸を出て、遊学の中にあった。

その中で佐内は水戸の藤田東湖と知り合うことになる。(藤田東湖の青藍舎は次に取り上げようと

考えている)

その折、東湖の屋敷に佐内は頻繁に出入りし、多くの人材と交わることになる。

結果、聡明だった佐内は、「越前に橋本あり」と噂されるようになる。

当時の越前藩にも優秀な重役がいた、中根雪江や鈴木主税らである。

彼らは藩主慶永に佐内の話をする。慶永は手を打って喜んだという。

以下、童門冬二さんの「私塾の研究」から抜粋する。

「すぐに橋本を召し戻して、明道館の改革に当たらせよ」

「しかし、彼はまだわずか二十三、四歳で、若輩でございますが」

「かまわぬ、若くても力のある者は思い切って登用しよう」

「藩内に軋轢が生じると思いますが」

「その責任は私とおまえたちが負おう。橋本に思う存分改革を実行させよ」

 

福井藩は幕末のわが国の歴史の中でさほどクローズアップされていない。

むしろ柴田勝家、お市の方の北ノ庄の方がはるかに有名である。

人物としては春嶽公が良く取り上げられるが、福井藩が大きく取り上げられることは少ない。

しかし、ここに出てくる藩内教育に関しての決断は大いに取り上げられるもので、当時の藩の中

でも先進的であったと私は思う。

福井で学習塾をしているとその頃の歴史が今の福井県の教育の芯に存在しているのではないかと

いうことを少なからず感じることがある。

のちにこの若造の佐内がこの藩校をたった一年で別物にしてしまう。

現行の塾屋さんの多くが教室経営に悩んでいる昨今、ここに私たちが学ぶことは大きい。

今書いているようなダイジェスト版ではその仔細は記事にできないが、ぜひとも学んでもらいた

い。

福井に教室を出す前に同業者の会合で佐内の話を実はしたことがあったのだが、「この人は時代

遅れだ」と言わんばかりの視線を私は浴びたことがある。

もちろんその人は今はこの業界からは去らなければならなかったのだが、すべてのヒントがいろ

いろなものに隠れていると思えないのは悲しいことである。

佐内の改革はそういう意味で非常に学ぶべきものがあるといってよいだろう。

| とよ爺 | 学習塾 | 10:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾屋の順風:ここ10年で塾は大きく変わった〜62

前稿までの記事を読み返してみると最後は若い人たちの勉強不足で終わっている。

しかし、その勉強不足は若い人たちだけの問題ではない。

私は還暦を超えているのだが、私の年代でも勉強不足は目立つ。

私たちが育ってきた学校環境は確かに学習量においてははるかに今の若者たちに勝るのだが、

その後の人生において、勉強をやめてしまった人が非常に多い。

いや、勉強はしているかもしれないのだが、あまりにも偏った勉強ししないようになった。

簡単に言えば、食っていくための勉強であり、もちろんそれはしなければならないものなの

だが、それは時代とともに変わっていくはずなのだが、それに対しての対応力を持てない。

要するに時代に適応しない勉強なのである。

 

時代に動かされない勉強はないかと言えば、やはりそれはあるものだと思う。

簡単に言えば、教養につながる勉強である。

不思議なものでそういう勉強をしている者は具体案はないかもしれないのだが、人を動かす

力を持つ。

人間、歳をとればとるほどそういう勉強をしなければならないのである。

 

私自身も決して教養があるとは言えない人間なのだが、少なくとも教養人に対しての憧れは

ある。

中にはそういう人間を否定する者がいるが、それは明らかに間違っている。

曲がりなりにも、教育の世界にいるならばそれは必要不可欠なものである。

一時はそれを求めなかった時代もあったように思うが、今ははっきりとあるように思う。

なぜそうなったのかと言えば、供給側に力があった時代から、需要を持つ人たちにイニシア

ティブが移ったからである。

しかし、悲しいかな私たちの業界にはそれに気づかず、需要と供給の力のバランスは変わっ

ていないと思っている者がいる。

もちろんそれは勉強不足から来ているのだが、そういう人間が当たり前のように意見を言う

から、ややこしい業界なのである。

世の企業ならば、そんな人間はとうに淘汰されている。

そんな甘い環境ではないのである。

 

しかし昨今、やっと我が業界にもそういう波が押し寄せてきた。

私こういう傾向を良いことだと思っている。

| とよ爺 | 学習塾 | 10:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾の起源〜明道館

佐内16歳、1849年から、緒方洪庵の適塾に通っている。

当時、外国の学問を習っているというので、多くの学生は気を緩め、自由奔放に振る舞って

いたのだが、佐内は品行方正で模範学生だったようである。

 

童門冬二さんの本にこういう文章がある。

佐内が毎晩夜になると外出するというので、「女のところにでも行くのではないか」と疑っ

た福沢諭吉が後をつける。しかし佐内は、橋の下に寝ていた浮浪者の病人の診察をし、手当

をしていた。これは福沢諭吉に衝撃を与えた。

佐内は、こういう自由奔放な学生仲間の中にあって、品行方正な態度を持ち続けていたが、

実を言えば腹の中では他の学生を困ったものだと思っていた。

「外国の学問を学んだということで、外国人の悪い生活習慣まで身に付けてしまっている。

これは危険だ。いたずらに外国の学問を日本に撒き散らすと、本来学ぶべき知識や技術だけ

でなく、外国の腐った根性まで身に付けてしまう」

 

この時の経験が、佐内の「和魂洋芸」の信念をいよいよ強くさせたという。

「和魂洋芸」とは。「和魂洋才」とも言い、日本古来の精神を大切にしつつ、西洋から優れ

た学問・知識・技術などを摂取、活用し、両者を調和、発展させていくことで多くの幕末の

志士たちが持った思想である。

佐内は開国論者ではあるが、アメリカ・ロシアと同盟し、イギリスを共同の適にしようなど

という国際連合論を持ってもいたが、単なる西洋かぶれでもなかった。

佐内は「儒学」もしっかり学んでいて、「道徳」や「人の道」の確かさは日本以外にはない

と信じていたそうである。

 

その後、父親の病気を理由に適塾を去ることになる。

福井に戻った佐内は藩主松平慶永のもとに仕えるようになる。

松平慶永は田安家から養子に入り、開明的な思想を持っていた。

しかし、当時の多くの藩の重鎮が古い考えにとらわれ、慶永のいうことを聞く者がいなかっ

た。その結果、佐内に声がかかったのである。

結果、島津斉彬が西郷隆盛を京都工作に使ったように慶永も佐内を京都工作に使う。

そこから、佐内の人生が少しずつ狂い始めていたのかもしれない。

| とよ爺 | 学習塾 | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
三連休を終えて

猛暑の三連休を何事もなく終えることができた。

毎日、アポイントがあったのだが、そのほとんどが私の慰労会のようなものであった。

と言っても、それを肴に集まって、いろいろなことを話すという目的も皆にあったと思う。

どの会もこれからも続けて行こうということになった。

もちろん業界から引退した私も含めてである。

 

友というのは本当にありがたいものである。

いままでお付き合いしていて、感じることができなかったいろいろなものをこの三日間で、皆さん

からいただいたと思う。

逆に私が皆さんに対して、何を返せばよいのか、何をしてきたのかを考えた三日間でもあった。

言えるのは皆一生懸命来ていること。

これからは自分自身も生きていくのに精いっぱいの日々なので、何を返せるのかはわからないが、

できる限り皆さんに関わっていきたいと思う。

 

まだ、私は会社にいるので、会社の中の仲間たちは何を感じているのかわからないが、おそらくい

なくなって初めてわかることがお互いにあるかとも思う。

とにかく自分自身の可能性を信じて頑張ってほしいものである。

 

それはいいのだが、この三連休は本当に暑かった。

東京、横浜を行き来したのだが、都会は照り返しがきつく、歩いていてもクラクラするほどだった。

横浜の家に帰ってきても、夜はクーラーを使う日々だった。

近くのコンビニに夜中に買い物に行っても、ムシムシしていて、じっとしても汗をかくほどだった。

明らかに自分の地元よりも暑い。

残っている女房に電話をすると、向こうもかなりの暑さだという。

「なるべく外に出ないで、家でじっとしててね」ときついアドバイスをされたのだが、約束があるの

でそういうわけにもいかなかった。

どちらにしても、無事に連休を終えることができたのでホッとしている。

 

あとは横浜の家で保険屋さんと会うだけである。

三連休の疲れをしっかりととって、地元に戻ろうと思う。

地元に戻るとやることはいろいろある。

地元にいれば、目付け役がそばにいるので安心である。

節目の8月はもう目と鼻の先である。

残りの日々を何事もないまま終えようと思っている。

秋以降の自分が本当に楽しみである。

| とよ爺 | 日記 | 08:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
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